【ラジオ雑学】ラジオ放送進化論

【ラジオ雑学】ラジオ放送進化論

 1925年に日本で初めてのラジオ放送が行われてから、今年で97年。ラジオほど長期間にわたって互換性が維持されているメディアはない。
 MDしかり、レーザーディスクしかり、アナログTVしかり、その間、様々なメディアが生まれては消えていったが、その普及の過程で互換性を犠牲にして混乱を招いたケースも少なくない。例えば、MDは途中からMDLPという規格が生まれ、長時間記録ができるようになったが、既に普及していた多くのMDデッキではMDLPの再生ができなかった。しかし、ラジオに関しては、例えば創成期の鉱石ラジオがあれば、現在の放送を何の問題も無く聞けるのである。
 ここでは、ラジオが進化してきた道のりを、いくつかの視点から追いかけてみたいと思う。

電波の発見~ラジオ放送へ

 まず、世界で初めて電波の実験に成功したのは、ドイツのヘルツ(「Hz」という単位はこのヘルツからきている)である。1888年に、コンデンサーや誘導コイル、放電球などからなる送信機を使い、わずか数メートル先の火花リングで受信させることに成功。この時、電波はただの「ノイズ」でしか無かった。
 そのノイズを通信に活用したのはイタリアのマルコーニだ。アンテナという概念を取り入れたことによって、1895年、2.4km離れた場所でのモールス信号受信に成功している。単なるノイズが、電波として通信手段になった瞬間である。ちなみに、「モールス信号=無線」のイメージが強いので気になって前後関係を調べてみたのだが、モールス符号の原型は、アメリカのモールスが、マルコーニの実験よりも前の1837年頃に開発したものだった。当時は有線や発光による通信に使われており、1868年にUTI=万国電信連合で承認されている。
 その電波に「変調」という概念を取り入れたのが、カナダ生まれのフェッセンデン。アメリカのエジソン研究所出身のフェッセンデンは、1900年、高周波火花送信機を使った音声信号の送信実験を行い、約1.6km離れた地点で受信に成功。さらに、1906年には、交流発電機で作った正弦波を変調させた交流発電式送信機の公開実験を行って成功させた。
 さらに、最初の成功から数日後のクリスマスに行った実験は、もはや実験の域を超えた「放送」に近い内容で、フェッセンデン自身の弾き語りによる「さやかに星はきらめ(O Holy Night)」と聖書の朗読を送信。世界初のラジオ放送は大成功に終わったのである。
 技術者たちが実験を繰り返しながらラジオ放送を行っていく中、本格的な商用放送が始まったのは1920年11月2日のこと。アメリカ・ペンシルベニア州ピッツバーグのKDKAが行ったAM放送で、最初の放送内容は大統領選挙の結果で「ハーディングが勝利した」というニュースだったという。

ラジオの父・アームストロング

 フェッセンデンは周波数変調(FM)による音声伝送についても研究しており、基礎的な理論は1902年頃考案されたといわれている。しかし、それをテクノロジーのレベルまで引き上げたのはアームストロングであった。
 アームストロングは、まさにラジオの父とでもいうべき人物で、正帰還を利用してハウリングに近い状態を作り出してゲインを稼ぐ「再生方式」、周波数変換を行って受信能力の向上を図る「スーパーヘテロダイン方式」など、トランジスタなど無い真空管の時代でありながら、現在まで現役バリバリの受信方式を確立させたのだ。
 ちなみに、FM技術をめぐっては「FMには何の利点も無い」と主張するAT&Tの技術者カーソンと対立。1936年、同じジャズのレコードをAMとFMで放送するFCCの公開実験に参加して、圧倒的な音質の差でFMの優位性を証明して見せたのだった。
 1937年、アームストロングはニュージャージー州アルパインに自らの特許技術を使って、世界初のFMラジオ局W2XMNを開局。その放送は、160km離れたところでもクリアに聞こえたという。

日本でもラジオ放送がスタート

 アメリカでのラジオ放送開始から遅れること5年の1925年3月22日、日本で初めてのAMラジオ放送が行われることになった。それに先立って、1923年に逓信省(現・総務省)が、のちの放送法の原型となる「放送用私設無線電話規則」を制定。東京、名古屋、大阪の各地域で、公益法人として1事業者ずつを募集してラジオ放送を許可する方針を打ち出した。
 結果、社団法人東京放送局(JOAK)、社団法人大阪放送局(JOBK)、社団法人名古屋放送局(JOCK)が設立されて放送を行うことになるのだが、途中、東京放送局が発注予定だった送信機を大阪放送局に横取りされてしまったり、東京放送局が突貫工事で用意した別の送信機の検査が間に合わず3月1日の開局が22日にずれ込んだり、開局までは色々とあったようである。そんな各局も、翌年1926年に「社団法人日本放送協会(NHK)」として統合。この先25年もの間、日本におけるラジオ放送を独占することになる。

戦後、民間放送が誕生

 民間放送が初めて認められたのは、第二次世界大戦終結から5年経った1951年のこと。1951年4月21日、申請した16局にAM放送の予備免許が交付されたのだ。そして、1951年9月1日・午前6時30分に名古屋の中部日本放送が開局、遅れること5時間半の同日正午に大阪の新日本放送(現・毎日放送)が開局。日本は、その後、数年間の開局ラッシュを迎えることになる。
 しかし、この時点では、各局とも放送内容がバラバラで、NHKを除いてネットワークが組まれていたという話は無い。また、NHKのネットワークとて、全国をカバーするにはあまりに放送局数が少なく貧弱なものであった。
 そんな中、日本が戦後の復興からめざましい経済成長を遂げるに至り、株式投資や先物取り引きが活発に行われるようになってくると、全国を一斉に結ぶ即時性のあるメディアが求められるようになる。そうして登場したのが、「日本短波放送(のちの「ラジオたんぱ」、現「ラジオNIKKEI」)」だ。放送内容は今と変わらず株式・商品市況放送が中心。中波における民間放送のスタートから遅れること3年、1954年のことであった。

新日本放送のベリカード。民間放送としては初めて試験放送の電波を発射した

FMステレオ放送の開始

 1937年に世界初のFMラジオ局W2XMNが開局してからしばらく、FM放送はモノラルで行われていた。この頃は、レコードもモノラルが一般的だったが、1958年1月にアメリカのオーディオ・フィディリティー社から世界初のステレオ盤(現在のレコードと同じ45-45方式)が発売されると、ステレオという音の仕組みが一気に認知されていくことになる。
 こうした動きを受けて、1961年に連邦通信委員会(FCC)がFMのステレオ技術を規格化。数多くのFMステレオ局が誕生していくことになった。ちなみに、この時に採用されたのがゼネラル・エレクトリックとゼニス社が共同で開発した「AM-FM」方式。通常のFM音声(L+R)にAM多重信号(L-R)を重ねることにより、互換性を保ったままモノラルとステレオの共存が可能であった。まず、従来のFMラジオではAM多重信号の再生はできないので、通常のFM音声(L+R)だけをモノラルとして再生できる。一方、対応ラジオでは両信号の「和」((L+R)+(L-R)=2L)と「差」((L+R)-(L-R)=2R)を求めることによって左右の音を作り出し、ステレオとして再生できるのだ。この技術は、規格化から50年以上経った今でも現役で、世界中のFM局で活用されている。

ステレオ放送はAMが先だった?

 日本初のFM放送は1957年、NHKの実験局(JOAK-FMX)によるものであった。当初は東京だけだったが、すぐに大阪、名古屋と展開し、1966年頃には全国展開を済ませ、1969年に正式な放送局となった。
 一方、民間の手によるものとしては、1958年に東海大学が通信教育用に開局した「東海大学超短波放送実験局(のちのエフエム東京)」が最初である。

FM東京の前身であるFM東海発足前の東海大学超短波放送実験局のベリカード。

 ところで、ステレオ放送というとFMが最初というイメージを持つ人も少なくないと思うが、実は、日本でステレオ放送を最初に行ったのはAMである。
 少しだけ時間軸が前後するが、日本では1952年の時点で、放送波を2つ使って左右の音を放送するステレオの実験が行われていた。NHKによる実験放送として始まり、その後数年間は、民放同士の協力によって民放2波を使っての実験放送も行われていた。
 ちなみに、このAMステレオ放送はラジオを左チャンネル用と右チャンネル用の2台用意して聴くものであったが、それならばと、ラジオ2台を1つの筐体に収めたAMステレオ専用のラジオまで発売されていたという。
 この頃になってくると、ラジオが単に情報ツールとしての役割を超え、娯楽としての要素が強くなってくる。
 AMステレオの音楽番組も増えていくと思われた矢先の1961年に、アメリカでFMステレオ技術の規格化が行われたのは前述の通りである。この波を受けて、1963年、日本でもFMステレオ放送がスタートする。もともと、日本ではFM-FM方式の技術が研究されていたようだが、世界の潮流には勝てなかったのである。そして、FMステレオ放送が開始されると、潮が引いていくように、2波を使ってのAMステレオ実験放送も姿を消していったのだった。

AMステレオ復活ののろし

 しかし、夢をあきらめられなかった人たちがいた。80年代後半から、再び「AMステレオ放送」という言葉をよく聞くようになる。実用化よりデモンストレーションの意味合いが強かったと思われるが、時折民放2波を使ってのステレオ放送も行われるようになっていく。
 実は、アメリカでも70年代後半からAMステレオ放送について6検討され、カーン方式(ISB)、モトローラ方式(C-QUAM)、マグナボックス方式(AM-PM)、ベラー方式(AM-FM)、ハリス方式(VCPM)の5つの方式から標準規格策定に動いたが、最終的にまとまらず、様々な規格が乱立することとなった。この反省を受けて、日本では、つくば万博用に設置された試験局「ラジオきらっと」(JO2C : 855kHz/1kW)の施設を受け継ぐかたちで「BTAステレオ実験」を開設。1986年のつくば万博終了後からおよそ2年間にわたって実験・調査を行った。結果、1991年にモトローラ方式が標準方式と決定されたのである。
 まさに、AM各局にとっての悲願ともいえるAMステレオ放送。1992年3月15日に、東京放送(現・TBSラジオ)、文化放送、ニッポン放送、毎日放送、朝日放送の民放5局でステレオ放送がスタートすると、順次、日本全国へと広まっていった。

 スタート当初は「AMラジオの最初で最後の進化」「AMラジオのFM化」といわれ、音楽や野球中継、ラジオドラマなど、ステレオを前面に打ち出した編成が多く見られるなど、もてはやされた。しかし、NHKが参入しなかったことや、いくらステレオになってもFMとAMの音質差を埋めるに至らなかったことなどから、ユーザーもメーカーもAMラジオのステレオ機能に対する付加価値を見いだせず、徐々にAMステレオラジオが姿を消していった。
 結果として、(送信機側も含めて)チップを独占的に供給していたモトローラの採算割れによる撤退を生み、放送局各局も送信設備のメンテナンスや維持ができなくなっていく。
 本稿執筆時(2017年8月)におけるAMステレオ放送実施局は、ニッポン放送、ラジオ大阪、CBCラジオ、和歌山放送と、全国にわずか4局を残すのみである。

AMステレオ放送がスタートしたころにはいくつか対応機種が発売された。写真はソニーのSRF-A300。

FM文字多重放送の盛衰

 一方、日本のFMラジオを語る上で避けて通れないのが、1994年にスタートした、いわゆる「見えるラジオ(エフエム東京系各局)」である。放送局によっては、「アラジン(J-Wave)」と呼ばれていたりもするが、正式にはFM文字多重放送といい、NHKも一部放送局で参入していた。専用受信機の表示窓にニュースや天気予報、演奏中の曲名・アーチスト名などの情報を表示する。
 技術的には、NHKが開発したDARCという方式が使われている。具体的には、FMステレオで使用しているサブチャンネルのさらに上の帯域76kHzに44kHz幅のLMSKサブキャリアを形成して、実用通信速度8900bps程度の情報配信を行う。端末側の操作でニュースや天気など、任意の情報を取り出すことができるが、これは、一旦送られた信号をラジオ側で蓄積しておいて、その中から必要なデータを表示しているに過ぎない。
 エフエム東京系列各局が一斉に導入したこともあって、対応する放送局は全国隅々に及んだが、受信側の処理に小型CPUや液晶表示器が必要なためラジオのコストを押し上げ、結果として、FMラジオ文字多重放送専用機やカーステレオへの搭載にとどまって一般には普及せず、民放各局は2016年頃までにすべて撤退していった。
 しかし、実はこのFM多重放送(DARC)を見えないかたちで普及させることに成功したのがNHKだ。現在、多くのカーナビには渋滞情報が表示され、ルート検索にVICSが活用されているが、そのVICSで使われているのがNHK-FMのDARCなのである。
 目に見えるかたちで広めようとした民放と、目に見えないかたちでしたたかに普及を図ったNHK、勝負は最初からついていたのかも知れない。

JFN系の「見えるラジオ」は2014年3月31日でサービス終了。インターネット普及までの文字情報サービスとしては優秀なものだった。

radikoの時代へ

 いくつものテクノロジーを飲み込んでは吐き出して成長してきたラジオ。そんなラジオに大きな転機が訪れたのが、radikoの登場である。都市雑音や高層ビルなど、受信環境の悪化を打開することを目的に日本が独自開発したインターネットによるラジオ配信サイトで、2010年12月1日、まずは、関東1都6県・関西2府4県でスタートした。
 IPアドレスによって受信者のおおよその場所を特定して受信者の地元放送局しか受信させないエリア制限の仕組みを持ち、インターネットのサービスでありながら、放送におけるサービスエリアの概念を取り入れている。
 しかし、サービス開始からほどなく発生した東日本大震災においては、このエリア制限が一時的に取り払われ、また、被災エリアのラジオ局を全国配信するなど、被災地と全国との情報伝達に大きな役割を果たした。
 さらに、この頃、ちょうどスマートフォンの普及時期と重なっていたこともあって、radikoの全国展開と合わせて、利用者数も拡大していった。
 現在では、NHKを含めた全国の放送局が参加したradiko.jp。有料ながら月々350円(税別)で全国のラジオ局を聞ける「エリアフリー」や、過去1週間以内の番組ならいつでも聞くことができる蓄積型サービスの「タイムフリー」を提供するなど、大昔からいわれ続けてなかなか実現しなかった放送と通信(ラジオとインターネット)の融合を理想的なかたちで具現化したといえるだろう。

新しいラジオの登場も

 時代と共に、真空管がトランジスターやICチップに変わりこそしたが、現在まで、ほとんどのラジオがアームストロングの開発した基礎技術を使っている。アームストロングの技術は、それほどまでに完成されていたのである。だが、ここ数年、新しい動きも出始めている。
 まずは、受信機側についてだが、21世紀に入った頃から、「ダイレクトサンプリング」といわれるまったく新しい受信方式が台頭してきた。電波とは特定の周波数を持った電気信号であるが、この信号を直接A/Dコンバータでサンプリングしてしまうのだ。あとは、数値化された「電波」に数学的処理を施したのちにD/Aコンバータで出力すれば音声信号を取り出すことができる。この方式の優れているところは、サンプリングさえ正しくできれば、AMであろうとFMであろうと、ステレオであろうと、FM文字多重であろうと、問題なく取り出せるということ。
 高速で動作するA/DコンバータとCPUが安価で手に入るようになってきたことから、通信型受信機を中心に普及が進んでいる。
 一方、世界的に見れば「デジタルラジオ」も広く普及されており、日本でも一時期その動きがあったが、それについてはまた違う機会に紹介したい。

文/手島伸英 ※「ラジオマニア2017」より再編


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